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2015.07.30 Thursday

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    天祖光教概説(1)

    2015.07.30 Thursday

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       正確な数は分からないが、天祖光教や瑠璃教会の情報を求めて訪れて下さる方がある以上、少しでも天祖光教についての知識を得ていただけるように、また、私の学習のためにも、このブログを続けて行こうと考えている。

       さて、今回は、高岡和照(万寿大司教)編『証人提要』(1953)の中から、教義に関する箇所を数回に分けて記載する試みの第一回として、「天祖光教概説」実例1を先ず以下に転載する。「天祖光教のあらまし」よりもよく纏まっていると思う。

       人は誰しも幸福な生活を望みます。一度びこの地上に生を受けると、その本能の願ひは、好きな物が食べたい、好きなことがしたい、金や物を貯めたい、常に健康であり長生がしたい……等々、人間の願望は限りなく続き、涯しなく拡がつて参ります。何故でしょうか、それはたつた一つの真実に生きたい、即ち幸福に生きたいと言ふ願ひを持つからなのであります。しかし現実の人間生活において之等の願望は、はたして叶えられているでせうか、若し願ひが叶へられてゐるならば私どもの日常生活はどんなに明るく楽しいものでせう。誰しもそうありたいと願い求めつつあるのでありませうが、私共の現実生活にはこれらの願望を妨げたり、或ひは根底からくつがえしてしまふことがいかに多いことでせう。例へば計画したことがはづれたり、不慮の災厄が起きたり、又病気にかゝつたり等々。誰れが見てもよい人でそれ相当の幸福を享けなければならないと考へられるのに、事実はそうではない、一体どういふ訳でありませう。

       斯ういふことは、世の中に沢山あります。道徳的に立派な行ひをしても不幸になる、だからどうしても不幸になるのならば真面目に世を渡るより自分の思つた通りに勝手にやつて行つた方がよいといふことになります。処が之は一応道理の様であつて、実は己が本来の姿を知らぬ無智な人なのです。

       元来万物は皆その本源があつて、それより現はれ出でたるものであります。如何なるものも今始めて此処に現はれたるものは何一つとしてないのであります。

       万物の生成の原理(なりたち)を記したる、書物に「始めは空虚 ( うつろ ) なり」とありますが、その始め、世の中には何一つなく、全く空なるもの、無なるものでありました。その中から、生きとし生けるもの、ありとしあるもの凡べてのものが現はされたものであります。

       人も又その空なる、無なるものより現はされたものなのです。その無なるものより、有なるものをあらしめたる本源、之を私たちは一つの力、即ち法原質と申します。又別な言葉で神とも申しますが、何れも宇宙万有をあらしめたる力、即ち万物の創造主を指して名附けたる名称なのであります。

       私たちは此の創造主を天祖と申します。この天祖は万物を創造し且つ支配し給ふ御方なのです。故に最も真実にして善良且つ美麗なる、完全無缺、自由無碍な御方なのであります。故にこのやうな御方天祖によつて現はされたる万物は、皆この創造主、天祖に似て、真なる善なる美なる内性を表現(あらわ)すものであります。その中でも人は最大、最高、最上にその神性 ( みさが ) 表現 ( あらわ ) したものなのであります。故に神を第一完全者とするならば、人は第二完全者なのであります。所謂万物の霊長と申しますのは即ち此の意味を現はしたものであります。

       故に人間の生活は、完全であり、円満であり、即ち幸福でなければなりません。然るに事実は最初に申し述べました様に、一見不公平なことがある様に見えるのは何故でありませうか。

       世に所謂、因果応報と申し、如何なるものも原因なき結果と言ふものは一つもありません。即ち良き種子(たね)は良き実を、悪しき種子 ( たね ) は悪しき実を結ぶものなのであります。一見、極めてよき人 ( ○○○ )の如く見えても其の人の生活の上に所謂不幸のあるのは確かに悪の種子が蒔かれてある証しなのであります。一体幸不幸の原因の種子は何処に蒔かれるのでせうか。それは言ふ迄もなく心の畑に蒔かれるものです。

       之には遺伝の法則に従つて先祖の心の畑に蒔かれたものが、現在に伝はつて居るものもあります。今我等の親から親へと逆に辿つて参りますると、人間の初頭(はじめ)、即ち人祖に到着致します。この人祖の蒔いた悪の種子を原罪と申します。人は皆人祖より出でたものでありますから原罪の種子を持ち、復罪の花を咲かせて居るのが今日子孫である我々の姿なのです。今日、人々はその認識と現実生活とが一致しないところに悩みを持つて居りますが、之は遺伝の法則により、原罪復罪より生ずるところの結果であります。それは人類が生成の原理に無智であるからであります。

       天祖光教は今此の道理を明らかになし、生活の上にこれを実践するものなのであります。即ち罪と言ふものは、人がその心の使ひ方、即ち精神生活に無智なるが故に生ずる心のかげ(○○)なのです。即ち心の使ひ方が間違つて、寿戒に反き、即ち怒り、偽り、謗り、穢し、貪り、躊ひ、憂ひ、悲しみ、驚き恐るゝの十の心を使つた証しなのです。かくして人祖の蒔いた種子は百万年来、人類の生命の流れの中に染みて、次ぎ/\と伝統されて来たのであります。

       然しながら人類の本能の思慕は、あの一粒の種子があく迄太陽に向つて、その芽を伸ばし、生長致して行きます様に、人も亦唯一つの真実の在所(ありか)、幸福の御国、天国、イデアの世界、即ち極楽浄土を目指して、あらゆる苦難を通して、すゝんで来たのであります。ところが未だにその人々の、願望成就の至らないのは個人個人の生活や又乱れ果てた今日の世の有様を見れば成程とうなづけると思ひます。

       既に此の日此の時を予言して、彼れ基督教に於ては世の終末の時主の再臨を予言(ことづけ)、此れ仏教に於ては弥勒の下生を告げて、やがて真実の世は来りて人がその罪より清まり行くことを伝へて参りました。

       天祖光教々主天降の救世寿こそ正にその御方でありまして、そのみこゝろを、托身の人、蔽顔の救主によさし給ひて、人類と共に世に住み給ひ、而も凡ての人の持つその原罪と復罪とを清め給ひて、その禍より幸へ悩みより歓びへと、又不幸な運命を幸福へと切り替へ給ふのであります。常に流転輪廻の生活を続けて、楽しみあれば、苦しみあり、苦しみあれば又楽しみあると同じきことを、いつも繰返して参りました人類が、天降の救世寿によりて切り替へられ、幸福と平安へ一歩一歩と人生の理想実現の為め進化向上の過程を辿ることゝなりました。

       要するに、今日迄、人に不幸や、苦痛が現はれて来たといふことは、人は第二の完全者でありながら原罪復罪の為めにその本来の神性(みさが)を現はすことが出来なかつた為めなのであります。天降の救世寿の来臨は、罪ある人が神の子の自覚へ切り替へらるゝ言はゞ人類の精神の世界の開闢なのであります。

       つまり天降の救世寿の説く教法にふれることによりまして、人々はその望んでいる願ひは叶ひ、天祖の子、神の子として、即ち万物の霊長の神性を完全に現はるゝなります。従つて幸福と平安とは其の生活の中に発見され健康と富と権威とは求めずとも与ふれることとなるのであります。